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なぜ視聴者はキルミーベイベーの最終回に感動させられるのか? 映画の「殺し屋と少女」像

 キルミーベイベーは2012年1月から3月にかけて放映された、全13話のアニメだ。内容は、殺し屋のソーニャと、友人のやすなの掛け合いによるコメディである。しかし、その最終回は任務に赴くソーニャをやすなが止め、二人が一緒に帰るという感動的なものであり、多くの視聴者が涙した。
 では、なぜこの最終回は感動的なのだろうか。そもそも、ソーニャはやすなの制止になぜ応じたのだろうか。近年の映画における「少女の殺し屋」は、「ハンナ」「キック・アス」など、その善悪が問われないことが多い。殺人はあくまでもキャラクターの一部であり、そこに問題は提起されない。しかし、ソーニャはやすなの問いに対し、殺し屋をやめることで答える。
 殺人に苦悩する少女の殺し屋を描く作品として「ニキータ」がある。暗殺者のニキータは、恋人と同棲するうちに任務に苦痛を感じるようになり、そして組織から逃亡する。同じ話の類型として「レオン」がある。レオンも殺し屋が少女と出会い、殺し屋をやめようとする話である。だが、この2作品はともに悲劇的な結末を迎える。レオンは死に、ニキータも生死は明らかにされないものの、物語的には死で幕が下りる。
 これに対し、主人公が子供とともに逃亡し、組織と戦う「グロリア」では、主人公が生きて子供に会うことで感動的なラストを迎える。この違いはどこから生じるのか。グロリアは作中で殺人を犯すものの、一般人である。一般的な道徳観、正義感情にとって、殺し屋が無罪放免されることは許されない。そのため、殺し屋の物語は悲劇として終わるしかないのである。*1
 しかし、キルミーベイベーの結末は決して悲劇的ではない。職業としての殺人者であるソーニャはその罪を問われることがなく、平和な生活を送ることが許される。なぜか。それは、それまでの12話の積み重ねに他ならない。12話にわたるソーニャとやすなの日常の描写により、視聴者は2人を理解し、感情移入している。だからこそ、殺人者であるソーニャが自身の人間性を自覚したとき、視聴者もまた、それを受け入れることができる。
 安易なドラマツルギーに頼らず、人間性の回復を描いたキルミーベイベーは映像史に残る名作だといえる。



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*1 アサシンとかいうクソ映画はポイーで。
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